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みな他力 [はじめての『高僧和讃』(その39)]

(22)みな他力

 次の和讃を読んで自利と利他の関係について考えましょう。

 「信心すなはち一心なり 一心すなはち金剛心 金剛心は菩提心 この心すなはち他力なり」(第19首)。
 「信心すなわち一心で、一心すなわち金剛心。金剛心は菩提心、これみな他力に他ならず」。

 第17首と第18首で、天親の「一心」は「願作仏心」であり、「願作仏心」は「度衆生心」であるといわれましたが、今度はその「一心」を「金剛心(金剛のように堅い信心)」と言い、さらにそれは「菩提心(仏の悟りをもとめるこころ)」であるとつなげます。そして最後に「この心すなはち他力なり」と点睛がうたれ、ここに自利のこころがそのまま利他のこころであることが明らかになります。
 まず自利、その上で利他と思うのは、どちらも自力と考えるからです。「自力で」となりますと、まず自しかる後に他というように順序がつくもので、まれに他を先とするようなことがありますと、なんと自己犠牲的かと特別視されます。しかし願作仏心も度衆生心も自力ではなく他力だとなりますと話がまったく違ってきます。ここであらためて願作仏心が他力であるということに目を向けたいと思います。
 仏になりたいと願うこころが他力であるというのはどうにも不自然に見えます。そもそも願うのが自分であることは理の当然であり、そうではない願いというものは考えようがありません。ただ、仏になりたいと願うのは、それに先立って、仏になってほしいと願われているからだということ、ここに秘密を解く鍵があります。前に、帰命はそれに先立って勅命があると述べましたが(18)、まったく同様に、われらが願うに先立って如来から願われているということです。願われているから願うことができる、これが願作仏心は他力であるということの意味です。

タグ:親鸞を読む
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