SSブログ
はじめての『高僧和讃』(その40) ブログトップ

無我の自覚 [はじめての『高僧和讃』(その40)]

(23)無我の自覚

 普通の願いは、それが誰かから願われていようがいまいがそんなことに関係なく、われらが自分で願います。今日は刺身が食べたいと願うとき、それに先立って誰かからそう願われていることはまずありません、ただぼくがそうしたいと思うだけです。ところが仏になりたいと願うときは、必ずそれに先立ってそのように願われています。それが法蔵菩薩の願い(本願)に他なりません。さあしかし、ただそう言ってすますのではなく、どうしてそんなふうに言えるのか、少し立ち止まって考えてみましょう。
 仏になるとは無我にめざめ、「われ」に囚われなくなることですから、仏になりたいと願うということは、「われ」に囚われなくなるように願うということです。しかし「われ」に囚われなくなるように願うのは、「われ」に囚われているという自覚があるからですが、問題はここにあります。「われ」に囚われているという自覚を「われ」がみずからもつことができるでしょうか。「われ」という実体が実在するかのように思い込み、それに囚われているということを「われ」がどのようにして自覚できるか。できるはずがありません。
 ソクラテスの「無知の知」を思い出します。彼は「自分には知がある」と誇るソフィストたちに対して「自分は知がないということを知っている」と言い、「だから知を愛して求めつづけるのだ(哲学、フィロソフィアとは愛知ということです)」と言います。さてしかし、この「無知の知」にはどうしようもない自己撞着が孕まれています。「自分は無知である」と言いながら、「無知である」ことは知っているのですから。問題はこの「無知である」ことをソクラテスはどのようにして知ったのかということです。もし彼がみずからこれを知ったとしますと、無知ではないと言わなければなりません。としますと「無知である」という揺るがない知は彼みずから得たのではなく、どこか別のところから彼にもたらされたと考えるしかありません。
 「われ」への囚われも同じで、それをみずから自覚することはできず、どこかからもたらされる他ありません。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『高僧和讃』(その40) ブログトップ