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すえとをりたる大慈悲心 [はじめての『高僧和讃』(その42)]

(25)すえとをりたる大慈悲心

 聖道の慈悲は「ものをあはれみ、かなしみ、はぐく」もうとするのですが、「今生に、いかにいとをし、不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし」と言わなければなりません。一方、浄土の慈悲は「念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益する」のですから、これこそ「すえとをりたる大慈悲心」であると言うのです。
 これは一見したところきわめて消極的に思えます。人をたすけようとしても、どうせ大したことはできないのだから、今生では念仏して、来生に仏となって思う存分たすければいいのだと言っているように聞こえるのです。しかし、この見方は、聖道にせよ浄土にせよ、慈悲というのは「自分が」人をたすけることであるという前提にたっています。ただ、聖道はそれを今生でやろうとし、浄土は来生で仏となってからやろうとするという点で違うだけだと。
 でも親鸞がここで言おうとしているのはそういうことではないでしょう。聖道は「自分が」ひとをたすけるというスタンスに立つが、浄土では、自分もひとも本願にたすけられるしかないということ,これを親鸞は言おうとしたのではないか。そもそも「たすける」ということばにどういう中身が盛り込まれているかが問題です。優れた医者は人のいのちをたすけることができますし、よき政治家は人の生活をたすけることができるでしょう。でも人の魂をたすけることばかりは誰の手にも負えません、ただ本願のみがよくしうるところです。
 われらは本願にたすけられるしかありません。そして自分が本願にたすけられることのなかに、自分以外の人たちもまた本願にたすけられることが含まれているのです。その二つは別ものではありません。それが「念仏まうすのみぞ、すえとをりたる大慈悲心にてさふらふ」の意味です。

                (第2回 完)

タグ:親鸞を読む
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