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曇鸞という人 [はじめての『高僧和讃』(その43)]

             第3回 曇鸞讃(その1)

(1)曇鸞という人

 さて3人目、曇鸞です。すでに天親のところで曇鸞の姿が見え隠れしていました。親鸞は天親の『浄土論』を読むとき、曇鸞の『浄土論註』を下敷きにしていますので、親鸞のなかでこの二人は切り離しがたく一体化しています(親鸞という名は天親の「親」と曇鸞の「鸞」からとられたことはよく知られています)。『教行信証』に「『浄土論』にいわく」とあっても、実際は『浄土論註』(『論註』と略称)からの引用であることがよくあるのです。『浄土論』はあまりに短く凝縮されていますので、さっと読むだけでは何を言っているのか飲み込みがたく、『論註』を読むことでようやく了解できることが多いのです。『論註』はまことにすぐれたコメンタールと言わなければなりません。
 では曇鸞とはどのような人物でしょうか。
 中国の南北朝時代に生きた人です(476~542)。仏教は漢の時代に中国に入ってきましたが、大きく花開くのはこの南北朝時代です(北半分が異民族に支配され、南に漢民族の王朝がありましたので、こう呼ばれます。この分裂に終止符を打つのが隋です)。曇鸞より少し前に、インドや西域から仏図澄(ぶっとちょう)や鳩摩羅什(くまらじゅう)、菩提流支(ぼだいるし)といった優れた僧が次々やってきて経論を訳しましたし、法顕という中国僧はインドに赴き、多くの経典を携えて海路もどってくるといったふうに、仏教が滔々と中国に流れ込み、その結果、とりわけ南朝においてきらびやかな仏教文化の花を咲かせました。
 曇鸞は北の北魏という鮮卑族の建てた国に生まれ育ちましたが、時の皇帝・孝文帝は漢化策をとり、仏教を重んじました。雲崗や竜門という石窟寺院の造営を命じたのもこの皇帝です。曇鸞は故郷に近い五台山で仏教修行に入り、主として鳩摩羅什によってもたらされた龍樹系の中観哲学を修めました。曇鸞の龍樹への傾倒ぶりは、『論註』を『十住毘婆沙論』からの引用で始めていることからも窺えます。ところがそんな曇鸞が思いがけない行動をとるのです。

タグ:親鸞を読む
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