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「ほとけのいのち」 [はじめての『高僧和讃』(その45)]

(3)「ほとけのいのち」

 それにしても曇鸞はどうして苦労して手に入れた道教の経典を焼き捨て、観無量寿経にあらわされた浄土の教えに帰したのでしょう。菩提流支は往生浄土の教えに勝る不老長生の術はないと答えたということですが、それはどういうことでしょうか。
 ここで往生浄土と不老長生について考えておきたいと思います。往生浄土とは、これまで何度も述べてきましたように、いのち終わった後いまここにいる世界とは別の世界へ往くことではありません。こことは別の世界で永遠の生を手に入れ、それがゆえに窮極の不老長生である、ということではないのです。そんな発想は龍樹の空の思想とも天親の唯識の思想とも相いれません。ではいったい往生浄土とはどういうことか。
 われらは「ほとけのいのち」から生まれてきて、また「ほとけのいのち」へと帰っていくということです。すべては「ほとけのいのち」の流れに他ならないということです。
 まず「ほとけのいのち」から生まれてきたということ。われらは父と母から生まれてきたのであって、「ほとけのいのち」などというわけの分からないものから突然生まれきたわけではない、と言われるでしょう。おっしゃる通りで、科学のことばをつかいますと、父のDNAと母のDNAが出会うことにより、新たなDNAが誕生し、それが肉体をまとうことでわれらが生まれてきたのです。
 さてしかし父のDNAはまたその父と母のDNAから、そして母のDNAもまたその父と母のDNAから、といった具合にその源をもとめてどこまでも遡ることができます。このようにいのちの系統樹をその根源に向かって遡及しますと、無数の糸が絡まり合っていますが、そのどこか一ヵ所でも切れていれば、いまのわれらは生まれていないわけで、それを思うと何とも不思議だと言わざるをえません(それを「ぼくらはみな38億歳」と表現してきました)。
 この無数の糸の絡まりを「ほとけのいのち」というとしますと、われらはやはり「ほとけのいのち」から生まれてきたことになります。

タグ:親鸞を読む
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