SSブログ
はじめての『高僧和讃』(その46) ブログトップ

「ほとけのいのち」へ帰る [はじめての『高僧和讃』(その46)]

(4)「ほとけのいのち」へ帰る

 では「ほとけのいのち」へ帰るということはどういうことでしょう。
 ぼくの頭には鮭の一生がうかびます。河の上流で卵からふ化した稚魚は次第に成長して、時期が来ると河を下って大海に出ていきます。そして数年のあいだ海を回遊して十分の栄養をとり、産卵のため故郷の河に戻ってくると、生まれた上流部をめざして遡上するのです。かくして産卵という大事業を成し遂げて、まもなく寿命が尽き、水面にゆらゆら漂うこととなります。卵からかえった鮭は成魚となり、また卵を残して消えていく。こうしていのちのリレーが連綿と続いていくことになります。DNAの糸の絡まりから姿をあらわした個体は己のDNAを子孫に残し、それがまた無数の糸の絡まりを作り出していく。これが「ほとけのいのち」へ帰るということです。
 さてしかし、生まれ故郷をめざして遡上する鮭たちの多くは、その途上でわれら人間をはじめとする他の生きものたちの餌食になることでしょう。めでたく自分のDNAを残せる個体は全体のどれくらいになるのでしょうか。いのちのリレーを受け渡すことのできなかったこうした多くの個体をどう考えればいいか。人間も例外ではありません。他の生きものの餌食になることはないとしても、いろいろな事情で己のDNAを残すことなくこの世を去っていく人たちがたくさんいますが、その人たちも「ほとけのいのち」へ帰っていくと言えるのでしょうか。
 「ほとけのいのち」をもう少し広く考えてみましょう。「個々のいのち」たちはDNAの糸でつながっているだけではありません。DNAはそれ単独では生きることができず、肉体をまとわなければなりませんが、そのためには他の生きものを捕食する必要があります。鮭の例に戻りますと、遡上の途中、熊の餌食となった個体は熊の肉体を養うというかたちでいのちのリレーに参加していると見ることができます。では己のDNAを残すことなくこの世を去った人たちはどうか。土に葬られて腐敗するか、火葬にされて灰となるかですが、これまた土に戻って微生物の食べ物になったり植物たちの肥やしとなることでしょう。やはりいのちは循環しているのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『高僧和讃』(その46) ブログトップ