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帰るということ [はじめての『高僧和讃』(その47)]

(5)帰るということ

 「ほとけのいのち」から生まれ、また「ほとけのいのち」へ帰っていくという、いのちのリレーを見てきました。
 さてしかしそれが往生浄土とどう関係するのかと言われるかもしれません。たしかに、いのちのリレーとは、いのちの循環のありようを客観的に眺めているだけですが、往生浄土はいまここに生きている自分が救われるという主体的なことがらです。「帰っておいで」という本願の声が聞こえて、喜びがこみ上げ、すぐさま「はい、ただいま」と応じる、これが往生浄土という経験です。「帰っておいで」という声は客観的にどこかにあるものではありません。それは聞こえてはじめて存在するのですから、聞こえない人には何のリアリティもありません。
 ただ、「帰っておいで」という声が聞こえるというが一体どこへ帰るのか、と言われたとき、「ほとけのいのち」へと答えるしかないのです。そしてさらに「ほとけのいのち」とは何かと尋ねられたとき、先のような話をすることになるということです。しかし、そんな話を聞かされたところで、肝心の「帰っておいで」という声が聞こえなければ、ただ「ふーん」で終わってしまうでしょう。「それはそうかもしれないけど、それで?」といった感想しかないでしょう。
 生まれる前についても死んだ後についても、確たることは何ひとつ言うことができず、イメージで語るしかありません。そのとき「帰る」ということばがキーワードになります(浄土教関係の書物にどれほどこの文字があらわれることでしょう)。辞典によりますと、「帰」という字はもともと「女が嫁にいく」というつくりで、そこから「おちつくべきところに行く」という意味でつかわれることとなり、「おちつくべきところ」とは「もと来たところ」ということから、「もとにもどる」という意味が生まれてきたようです。

タグ:親鸞を読む
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