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空と他力 [はじめての『高僧和讃』(その49)]

(7)空と他力

 曇鸞讃の二首目です。

 「四論の講説さしおきて 本願他力をときたまひ 具縛(ぐばく)の凡衆をみちびきて 涅槃のかど(門)にぞいらしめし」(第22首)。
 「空の教えをさしおいて、他力の教えときたまい、具縛の凡愚みちびいて、涅槃の門にいれたまう」。

 前に言いましたように(1)、曇鸞は鳩摩羅什によってもたらされた龍樹の中観哲学を修め、それを人々に説いていました。四論といいますのは、龍樹の『中論』・『十二門論』・『大智度論』と弟子の手になる『百論』をさし、中観派のことを中国では四論宗とも三論宗ともよびます。これは龍樹讃のところで見ましたように、釈迦の「無我」・「縁起」の教えを精緻な論理を駆使して「空」の理論へと高めたものですが、それを学んだはずの曇鸞が病・死という自身の具体的な問題にぶつかったとき、あろうことか道教の不老長生の術に縋りつこうとした。菩提流支に目を覚まされた曇鸞は「空」の思想が血肉化していなかったことを痛感したに違いありません。
 「論理のことば」は、それがどれほど高度なものであろうと、残念ながらそれだけで血肉化することはありません。血肉化するには「物語のことば」が必要なのです。それが本願他力の教えで、阿弥陀仏から「帰っておいで」という声が聞こえてきたとき、いま「わたしのいのち」を生きていながら、そのままで「ほとけのいのち」を生きていることに気づかされるのです。「わたしのいのち」なんてないのだとどれほど頭で納得しても(それが無我ということですが)、いざ病をえて「死なんずるやらん」(『歎異抄』第9章)と不安になったとき、不老長生のあやしげな教えに縋りつこうとしてしまう。ところが「帰っておいで」という本願を聞かせてもらうことによりはじめて「ほとけのいのち」を生きていることが実感できるのです。

タグ:親鸞を読む
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