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涅槃の門 [はじめての『高僧和讃』(その50)]

(8)涅槃の門

 この和讃のなかで「涅槃の門に入る」ということばが印象的です。「涅槃に入る」のではありません、「涅槃の門に入る」のです。曇鸞は『論註』において、「かの世界(安楽浄土)の相を観ずるに、三界(欲界・色界・無色界、迷いの世界)の道に勝過せり」という文を注釈するなかで「煩悩を断ぜずして、涅槃分をう」と述べています。「涅槃をう」とすればいいと思うのですが、「涅槃分をう」としているのです。その意図を汲んで親鸞はここで「涅槃に入る」とはせず、「涅槃の門に入る」と詠んでいるに違いありません。
 涅槃に入るとは、煩悩から解脱するということですから、これは生きている間にできるとは思えませんが、しかし涅槃の門に入ることはできる。曽我量深氏の名言、「浄土は彼岸にあれども、浄土の門は此岸にあり」を思い出します(量深氏はこれをこの和讃から思いつかれたのかもしれません)。生きているうちに浄土そのものに入れそうにはありませんが、しかし浄土の門に入ることはできるということです。煩悩がある限り仏になることはできませんが、すでに仏とひとしいと気づくことはできる。「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)とあるように、信心のひとは、身は穢土にあるままで、こころはすでに浄土にあるのです。
 では涅槃の門はどこにあるのか。
 この門はだれかれに「ほら、そこにある」と指さして示せるものではなく、そこを入った人自身が、「あゝ、これが涅槃の門か」と気づくだけです。この門は前方にはなく、後方にあると言ってもいい。前方に門を見つめながら「よし、あの門を入ろう」とするものではなく、門を入ったあと、ふりかえって「あゝ、門を入ったのだ」と気づくのです。それは本願に遇ったときです。「あひがたくしていまあふことをえたり」(『教行信証』序)と思えたとき、もうその門を入っているのです。

タグ:親鸞を読む
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