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浄業さかりにすすめつつ [はじめての『高僧和讃』(その56)]

(14)浄業さかりにすすめつつ

 第28首に石壁山玄中寺で曇鸞が念仏往生の教えをすすめたと詠われています。その事績が玄中寺内の石碑に刻まれ、後に道綽がその石碑に出会い、それを機に浄土の教えに帰すことになったことは有名なエピソードですが、ここで考えたいと思いますのは「浄業をすすめる」ということです。第25首のところで「ともに」と「ひとり」の関係について考えましたが、そこから念仏往生を人に「すすめる」とはどういうことかに思いを廻らしたいのです。
 気づきは「ひとり」であるということ、あらためてこれを確認しておきたいと思います。まわりにどれほど多くの人がいようとも、あることに気づくのはこの自分ひとりであるということ、気づきはあくまでも主観的だということです。知ることは客観的でなければなりません。自分が知っているということは、誰でも知ることができるということです。知らない人にも、こうすれば知ることができますよ、と指し示すことができなければなりません。ところが気づくことはそういうわけにいかないのです。自分はたまたま気づいただけで、他の人が気づくとは限らない。
 としますと、そもそも念仏を人に「すすめる」ことは可能でしょうか。
 南無阿弥陀仏はしばしば薬にたとえられます、煩悩という「死に至る病」にはこれに勝る薬はないと。さあしかし、南無阿弥陀仏がどんなにすばらしい薬であるとしても、自分が「死に至る病」にとりつかれていると思っていない人には何の値打ちもありません。そして煩悩という病は、それに気づいてはじめて姿をあらわす体のもので、気づかなければ影も形もないのです。普通の病は何らかの自覚症状があらわれるものでしょう、身体がだるいとか、微熱が続くとか、元気がでない、などなど。ところが煩悩という病は、あらゆる苦悩のもとでありながら、そんなことに気づくことなく「あら、たのしげや」とすごすことができるのです。

タグ:親鸞を読む
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