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救うことば [はじめての『高僧和讃』(その63)]

(6)救うことば

 ぼくらを救うことばは有用な情報を伝達することばではありません。いや、場合によっては、それが有用な情報を与えてくれるものでもあるかもしれませんが、でも、それが有用な情報を与えてくれるから救われるのではなく、それに備わる何か不思議な力で救われるのです。これまで「南無阿弥陀仏」という古いインドのことばをぼく流に意訳して、さまざまな現代日本語に置き換えてきました。たとえば「そのまま生きていていい」、あるいは「帰っておいで」などと。これをもとに救うことばについて考えてみましょう。
 まず、これは自分から発することばではありません、向こうから聞こえてくることばです。情報を伝達することばは、向こうから聞こえてくるものであり、こちらから発するものでもあります。受信するということは誰かが発信したということです。ところが救うことばは誰かが発信することができず、おしなべて受信するだけです。「帰っておいで」などは誰かが発信しているじゃないか、と言われるかもしれませんが、それが救う力をもつときは、誰かが発信しているのではありません。ではどこから発信されているのか。
 そのことばが聞こえるということは、誰かの口から出ているには違いないのですが、でも、それが人を救う力をもつときは、その誰かを通り越してどこか遠い向こうの方から聞こえてくるのです。神秘めかして言っているのではありません、そうとしか言いようがないのです。そこから浄土の教えは物語的にならざるをえません。「どこか遠い向こうの方」を「阿弥陀仏」と言わざるをえないのです。救いのことばは、ある人が言っているには違いないのだが、その人を通り越して阿弥陀仏から聞こえると。
 「帰っておいで」ということばは、ある人(たとえば母)の口から出てきますが、その人が言っているとしか聞こえなかったら、ただそれだけのことです。でもときに、その人を通り越して向こうの方から阿弥陀仏がよびかけてくれていると感じることがあり、そのときそれがはじめて救うことばになる。

タグ:親鸞を読む
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