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阿弥陀仏とは誰? [はじめての『高僧和讃』(その65)]

(8)阿弥陀仏とは誰?

 さて、ぼくらを救うこのことばは一体どこからやってくるのでしょう。「阿弥陀仏に決まっているじゃないか」と言って済ますことなく、そもそも阿弥陀仏とは誰かと問うてみたいと思うのです。親鸞は、阿弥陀仏とは「自然のやう(様)をしらせんれう(料)」(他力ということを伝えるための手立て)であって、「この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり」と釘をさします(『末燈鈔』第5通)。不可思議とは「思議できない」ということであるとともに、「思議してはならない」ということでもあります。
 そう言えば、ヴィドゲンシュタインも言っていました、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」(『論理哲学論考』)と。しかし、どれほど「思議してはならない」、「沈黙せねばならない」といわれても、いや、そう言われれば言われるほど、「いったい何だろう」という思いはどうにも抑えることができません。語りえぬものについても、語らざるをえず、不可思議のことについても、思議せざるをえないのです。これは煩悩深きわれらの性であると言わなければなりません。
 南無阿弥陀仏とは「そのまま生きていていい」という声だと言いました。そしてぼくらはこれを受信できるのみで、発信することはできないと(南無阿弥陀仏を称えることは、それをぼくらが発信しているのではありません、向こうからやってきた南無阿弥陀仏自身がぼくらの口を通して出てくるだけです)。もし誰かがこれを発信するとしますと、すぐさま「あなたは何さまでしょうか」と言いたくなります。これは誰にも発信できないことばだと感じるからです(「そのまま生きていてはいけない」ということば、これは死刑が宣告されるときのことばですが、これにも「あなたは何さまですか」と言いたくなります)。
 ではこれを発信することができるのは何ものか。それはわれら生きているものの同類ではなく、異類の人、つまり「もはや生きていない人」としか考えられません。ここに死者の存在が浮かび上がってきます。

タグ:親鸞を読む
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