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世々生々の父母兄弟 [はじめての『高僧和讃』(その66)]

(9)世々生々の父母兄弟

 『歎異抄』の第5章に「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏したること、いまださふらはず」とあります。亡き父母の供養のために念仏するというのは自然この上ないと思われるのに、そんなことはしたことがないと言う。どうしたことかとうろたえるぼくらに親鸞はこう言います、「そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」と。亡くなった有情はみんな世々生々の父母兄弟だから、とりたてて自分を生んでくれた父母だけを供養することはないということでしょう。
 この「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」ということばのしみじみとした味わいにこころ惹かれます。そして思うのです、世々生々の父母兄弟からあの不思議な声「そのまま生きていていい」がやってくるのではないかと。とするならば、阿弥陀仏とは世々生々の父母兄弟のことではないでしょうか。さあしかし、もうこれ以上阿弥陀仏についてあれこれ「さたする」ことはやめにしましょう。
 次の和讃に進みます。

 「弥陀の回向成就して 往相・還相ふたつなり これらの回向によりてこそ 心行ともにえしむなれ」(第34首)。
 「弥陀の回向にふたつあり、一に往相、二に還相。弥陀の回向があってこそ、信行ともにあたえらる」。

 ここに往相回向・還相回向という重要な概念が出てきます。回向とは「自分が修めた善行を自他に回らし向ける」ということですが、曇鸞はそれを往相と還相の二種類に分けるのです。曇鸞の言うところを聞いてみましょう。「回向に二種の相あり。一には往相、二には還相なり。往相とはおのが功徳をもって一切衆生に回施(えせ)して、ともにかの阿弥陀如来の安楽国に往生せんと作願するなり。還相とは、かの土に生じをはりて、…方便力成就すれば、生死の稠林(ちゅうりん、密林)に回入して一切衆生を教化して、ともに仏道に向かうなり」。

タグ:親鸞を読む
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