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生死すなはち涅槃なり [はじめての『高僧和讃』(その68)]

(11)生死すなはち涅槃なり

 往相回向は弥陀からやってくることを次の和讃はこう詠います。

 「往相の回向ととくことは 弥陀の方便ときいたり 悲願の信行えしむれば 生死すなはち涅槃なり」(第35首)。
 「往相回向ということは、弥陀の手立てがととのって、悲願の信行あたえられ、生死すなわち涅槃なり」。

 前に「煩悩・菩提体無二」ということばが出てきましたが(4)、それは「煩悩すなわち菩提」ということで、この和讃の「生死すなわち涅槃」と同じです。前には「煩悩すなわち菩提」とはどうしようもなく矛盾しているということに目を向けました。矛盾しているのにこころに響くのはなぜかと。ここでは、結局は同じことになると思いますが、「生死すなわち涅槃」はとりつく島がなく、どうにもよそよそしい感じがするということに注目したいと思います。『般若心経』の「色即是空、空即是色」と同じ顔つきをしていて、「ふーん」としか言いようがないということです。
 「生死すなわち涅槃」ということは、「わたしのいのち」はそのまま「ほとけのいのち」であるということですが、これを禅の公案のようにポンと与えられたらどうでしょう。どうしていいか分からないような頼りない感じにならないでしょうか。だからこそ坐禅してこの公案の世界に入れるようにするのじゃないか、と言われるかもしれません。そう言えば、道元の有名なことばに「ただわが身をも心をも、放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏のかたより行われて、これにしたがいもてゆくとき、力をもいれず、こころをも費やさずして、生死をはなれ仏となる」とあります。
 このことばには身の引き締まる思いがしますが、残念ながら、その世界に入っていくことができたとはとても思えません。ところが「若不生者、不取正覚(もし生まれずば、正覚をとらじ)」という本願の声が聞こえますと、もうすでにその世界に入っていると思えるのです。どういうことでしょう。

タグ:親鸞を読む
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