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「生死すなわち涅槃」と「涅槃すなわち生死」 [はじめての『高僧和讃』(その72)]

(15)「生死すなわち涅槃」と「涅槃すなわち生死」

 往相の回向により「生死すなわち涅槃」の境地がひらけると詠われていました(第35首)。とするならば還相の回向により「涅槃すなわち生死」の境地がひらけると喝破したのが曽我量深氏です。「生死すなわち涅槃」とは「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」ということであり、「涅槃すなわち生死」とは「ほとけのいのち」は「ほとけのいのち」のままで「わたしのいのち」ということです。「ほとけのいのち」を生きていると思えたら、どんな境遇にあっても存分に「わたしのいのち」を生きられるということです。
 「七地沈空」ということばがあります。これは菩薩が七地という位に至り、空をさとると、もうこれでよしと立ち止まってしまうということです。『論註』にこうあります、「菩薩、七地のなかにして大寂滅を得れば、上に諸仏の求むべきを見ず、下に衆生の度すべきを見ず」と。大寂滅の境地にいたると、もう成仏への道を歩もうとするこころも、衆生を利益しようというこころもなくなって、自堕落になってしまう危険があるということです。『般若心経』の「色即是空、空即是色」で言いますと、「色即是空」のところで立ち止まってしまい、さらに「空即是色」へと進まないということです。
 「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」というのが正定聚の境地ですが、その境地に出られたあとが肝心です。
 「あゝ、救われた」と思えたときに生きることが終わってしまうのではなく、そのあとにほんとうの人生がはじまるのです。『歎異抄』第1章にこうありました、「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへに」と。これは本願に遇うことができた正定聚の境地をみごとに言い表わしています(「本願を信ぜんには」という言い回しを「本願を信じるためには」と解するべきではありません、「本願を信じたあかつきには」ということです)。善をしなければというはからいもなく、悪をしてはならないというおそれもなく、ただこころの動くままに還相を生きていく、これが曽我量深氏のいわれる「涅槃すなわち生死」ということであり、『般若心経』の「空即是色」でしょう。

タグ:親鸞を読む
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