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一念歓喜 [はじめての『高僧和讃』(その75)]

(18)一念歓喜

 「濁っていたこころが澄む」のが他力である所以は、自分からそうしようと思うのではなく、気がついたらそうなっていたということです。親鸞はしばしば自然(じねん)ということばでそれを言い表わします。「おのずからしからしむ」ということ。自は「みずから」であると同時に「おのずから」であるというおもしろい文字です。「みずから」の「こころが澄む」には違いありませんが、それが「おのずから」おこるのです。信心も念仏も「みずから」の信心であり念仏でありながら、しかし「おのずから」おこるのであるということ、ここに他力の真面目があります。
 次の和讃も同じことを詠います。

 「尽十方の無碍光は 無明のやみをてらしつつ 一念歓喜するひとを かならず滅度(悟り)にいたらしむ」(第38首)。

 ここで「一念歓喜」と言われているのが「プラサーダ」です。あるときこころがサアーっと澄んで喜びがあふれる。それがここでは無碍の光が無明の闇を照らすと表現されています。こころが濁りのなかにあったことが無明の闇と言われ、その濁りが澄むことが無碍の光に照らされると言われます。あるとき夢から突然覚めるように、無明の闇に突然無碍の光が射し込み、こころが喜びで包まれる。
 これが他力の信です。
 ここで、あらためて確認しておきたいのは、一方に無明の闇があり、他方に無碍の光があるのではないということです。闇は闇として光と関係なくあり、光も光として闇と関係なくあるのではありません。闇は光があることではじめて闇となり、光は闇があることではじめて光となるのです。闇は光に縁って闇であり、光は闇に縁って光であるということ、この関係を忘れることはできません。

タグ:親鸞を読む
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