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こほりとみづ [はじめての『高僧和讃』(その76)]

(19)こほりとみづ

 夢から覚めてはじめて夢のなかにいたことに気づきます。覚めない限り、これが夢だと思うことはありません。同じように、光に遇うことではじめて闇のなかにいたことに気づくのであり、遇わなければ闇のなかにいると思うことはありません。このように、光に遇うことと闇に遇うことは一体です。こう言ってもいい。光に気づくことで闇が消えるのではありません、むしろ闇が闇となるのです。そして闇が闇となることで、はじめて光が光となります。
 次の和讃はそのことをまた別ように詠います。

 「無碍光の利益より 威徳広大の信をえて かならず煩悩のこほりとけ すなはち菩提のみづとなる」(第39首)。
 「無碍のひかりに遇うことで、功徳大きな信をえて、煩悩の氷すでに解け、すなわち菩提の水となる」。

 他力の信を「濁っていたこころが澄む」ということ、そして「こころの暗闇に光が射し込む」ということで見てきましたが、今度は「こころの氷が解ける」というイメージで語られます。ガチガチに凍っていたこころが、本願の光に遇うことで、解けて水となるというのも他力を見事に言い当てていると思います。こころの氷が解けるのも、そうしようと思ってできることではありません。あるときふと、あれほどガチガチだった氷がすでに解けて水になっていることに気づくのです。
 このイメージも、一方に氷があり、他方に水があると受けとりますと台なしになります。氷は解けて水となることで、はじめて氷であることが明らかになるのです。解けることなくいつまでも氷のままでしたら、氷であることは分からずじまいです。氷は解けて水になるのですが、それは氷がはじめて氷になるということです。氷と水は互いに関係なくあるのではなく、氷は水に縁ってあり、水もまた氷に縁ってあるのです。

タグ:親鸞を読む
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