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知らしめられる [はじめての『高僧和讃』(その78)]

(21)知らしめられる

 何度も繰り返すようで恐縮ですが、氷は解けて水となることで、はじめて氷であることが分かるのであり、いつまでも解けませんと、氷であることが明らかになりません。
 童話風に言えば、氷さんには自分が氷であることを自分で覚ることができないということです。それは水さんに教えてもらうしかありません、「おまえさんは解けるとわたしのように水になるんだよ」と。それを聞いてはじめて「そうか、わたしは解けて水になる前の氷なのか」と了解できるのです。おたまじゃくしも自分はおたまじゃくしであることを自分で知ることはできず、蛙さんから教えてもらうしかありません、「おまえさんはもうじきわたしのような蛙になるんだよ」と。そうしてはじめて「そうか、わたしは蛙になる前のおたまじゃくしなのか」と理解できるのです。
 煩悩即菩提といい、仏凡一如といっても、それは煩悩の側、凡夫の側から自分で知ることはできず、菩提の側、仏の側から知らしめてもらうしかありません。
 煩悩から菩提を知る道、凡夫が仏を知る道は閉ざされていて、菩提から煩悩を知らしめる道、仏から凡夫に知らしめる道しかないということです。それを知らしめるのが本願の声に他なりません。「若不生者、不取正覚(もし生まれずば、正覚をとらじ)」の声は、「おまえさんは必ず仏になることができるのだよ」という呼びかけであり、「おまえさんはもうじき蛙になれるんだよ」の声と同じように、それを聞いてはじめて「そうか、わたしは仏になる前の凡夫なのか」と知ることができ、凡夫だけれども、そのままで仏とひとしいのだと了解することができるのです。
 「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」にひとしいと知らしめられるのです。

タグ:親鸞を読む
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