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安楽仏国に生ずるは [はじめての『高僧和讃』(その81)]

             第5回 曇鸞讃(その3)

(1)安楽仏国に生ずるは

 次の和讃です。

 「安楽仏国に生ずるは 畢竟(ひっきょう)成仏の道路にて 無上の方便なりければ 諸仏浄土をすすめけり」(第43首)。
 「安楽国に生まれるは、ついに仏になるための、この上のない手立てとて、諸仏浄土をすすめたり」。

 この和讃は、『論註』に「方便といふは、いはく作願して一切衆生を摂取して、ともにおなじくかの安楽仏国に生ぜしむ。かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり」(親鸞の読み)とあるのを受けています。さてこれをどう理解するかです。成仏がいのち終わってのちのことであるのははっきりしていますが、「安楽仏国に生ずる」のはいつかという問題。伝統的な解釈では往生浄土もいのち終わってのちです。成仏はもちろん、往生もいのち終わってのちのこと。この娑婆世界ではさまざまな障碍があるため成仏のための修行を成し遂げることができないから、いのち終わって浄土に往生し、そしてめでたく成仏すると。
 いのちの終わりに臨んで往生するというのは『観経』から与えられる強烈なイメージですが、親鸞は真実の教えは『大経』にあり、『観経』は方便の教えであるとすることにより、このイメージからの脱却をはかったのではないでしょうか。「安楽仏国に生ずる」のは、いのちの終わりのときではなく、信心をえたそのときであると。「信心のさだまるとき往生またさだまる」(『末燈鈔』第1通)のです。この思いを強く支えているのがあの本願成就文であるのは言うまでもありません。「聞其名号(もんごみょうごう)、信心歓喜、乃至一念、至心回向、願生彼国、即得往生、住不退転(その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、ないし一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生をえ、不退転に住す)」と。
 かの国に生ぜんと願じた、そのときに往生をえるのであって、いのちの終わりを待つ必要はありません。

タグ:親鸞を読む
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