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衆生虚誑の身口意 [はじめての『高僧和讃』(その83)]

(3)衆生虚誑の身口意

 次の和讃です。

 「諸仏三業荘厳して 畢竟平等なることは 衆生虚誑(こおう)の身口意を 治せんがためとのべたまふ」(第44首)。
 「諸仏の業は清らかで、畢竟平等なることは、われら不実の三業を、治して清らにせんがため」。

 『論註』に「凡夫の衆生は身口意の三業に罪を造るをもつて、三界に輪転(りんでん)して窮(きは)まり已(や)むことあることなからん。このゆゑに諸仏・菩薩は、身口意の三業を荘厳して、もつて衆生の虚誑の三業を治するなり」とあるのがもとになっています。「衆生虚誑の身口意」から思い浮かぶのは、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことなることなき」(『歎異抄』後序)、あるいは「凡夫といふは、無明煩悩、われらがみにみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ、おほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』)といったことばです。
 「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」は「臨終の一念にいたるまで」消えることはないと言われていることからしますと、これが治るのはいのちが終わり成仏してからということになります。たしかに成仏すれば、そうした虚誑のこころはきれいに治るのでしょうが、しかしそれでは本願のありがたみがはるか遠いところに追いやられてしまいます。「いまここ」で「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」がどうにかならなければ本願に遇った値打ちがないと言わなければなりません。しかし虚誑のこころは「臨終の一念にいたるまで」治らない…。
 さて、どう考えればいいのでしょう。

タグ:親鸞を読む
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