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無上宝珠の名号 [はじめての『高僧和讃』(その85)]

(5)無上法珠の名号

 「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」が病であることを内から(みずから)覚ることはできないということです。「ぼくは嘘つきです」と人前で言う人は、こんなことを正直に言えるということは、「ほんとうは嘘つきではないのですよ」と言外にほのめかしているのです。「ぼくはねたみ心が強くて」という人も、どこかで「みんな多かれ少なかれそうでしょ」と言っているのです。「それは人間のさがですよ」と。
 おのれのねたみ心が死に至る病だと心底思わされるのは、それが外から(否応なく)突き付けられるからです。そんなとき、もうグーの音も出ず、ただうなだれるばかり。そして、ここが不思議なところですが、そうしてはじめてねたみ心のもたらす苦しみが抑えられるのです。
 次の和讃に進みます。

 「安楽仏国にいたるには 無上宝珠(ほうしゅ)の名号と 真実信心ひとつにて 無別道故(むべつどうこ)とときたまふ」(第45首)。
 「安楽国にいたるには、宝珠のような名号と、真の信心ひとつだけ、他にいかなる道もない」。

 『論註』に「たとへば浄摩尼宝珠(じょうまにほうしゅ)を、これを濁水(じょくすい)に置けば、水すなはち清浄なるがごとし。もし人、無量生死の罪濁にありといへども、かの阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号を聞きて、これを濁心に投ぐれば、念々のうちに罪滅して心浄まり、すなはち往生をう」とあります。南無阿弥陀仏が聞こえることで「無量生死の罪濁」が浄まり往生をえることができるのは、摩尼宝珠が濁水に入ると、その水がサアーっと澄むようなものだと言うのです。「安楽国に往生する」というのは、罪によるこころの濁りが名号により澄み渡ることであるという点に着目したいと思います。安楽になるとはどういうことかと言えば、ドロドロに濁っていたこころが名号という魔尼宝珠によりサアーっと澄んで明るくなることなのです。

タグ:親鸞を読む
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