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そのまま [はじめての『高僧和讃』(その86)]

(6)そのまま

 これまで、どこからかやってくる「南無阿弥陀仏」をぼく流にさまざまに言い換えてきました、たとえば「そのまま生きていていい」とか「帰っておいで」とか。この呼びかけが喜ばしい福音であることは言うまでもありませんが、見失ってならないのは、この福音には鋭い刺が含まれているということで、その刺に気づきませんと、それが福音であることにも気づきません。その刺は「そのまま」ということばに隠れています。「帰っておいで」にも「そのまま」は入っていて、「おまえは無量生死の罪濁にまみれているが、そのまま帰ってきていいんだよ」という意味です。
 若かった頃のことを思い出します。大学に入ったのはいいものの、そこには求めていたものがないと失望し、東京の「アリの街」(いまはもうありませんが、キリスト教にもとづいて共同生活をしながらクズ拾いをしていた集団です)へと自転車で家出したときのことです。説明しても分かってもらえないと思い、何も言わずに出てきたのですが、着いてから出した短い手紙を手がかりに親父が尋ねあて、連れ戻されることになりました。悄然と帰ってきたぼくに母のひと言がグサリと刺さりました。「苦労したなあ」。ぼくは嬉しくて涙を流しながら、同時に「あゝ、何と罰当たりなことをしたのか」と自分の罪深さに気づかされたのです。
 南無阿弥陀仏には「おまえを必ず救う」という福音と同時に「おまえは何と罰当たりな人間か」という刺が含まれているということです。名号という宝珠は「これを濁水に置けば、水すなはち清浄なるがごとし」という曇鸞のことばで言いますと、南無阿弥陀仏が聞こえることで、こころはサアーっと清浄になるのですが、同時に、もともとドロドロに濁ったこころなのだと気づかされるのです。澄むということは濁っていることと二にして一であるということです。

タグ:親鸞を読む
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