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無生の生 [はじめての『高僧和讃』(その87)]

(7)無生の生

 次の和讃です。

 「如来清浄本願の 無生の生なりければ 本則三三の品(ほん)なれど 一二もかはることぞなき」(第46首)。
 「弥陀の浄土に生まれるは、無生の生であるからは、もとは九品というけれど、ひとつもかわることはない」。

 往生浄土ということばからは、この世のいのちが終わり、あの世で新たないのちがはじまるような印象を受けます。しかし、これまで繰り返し述べてきましたように、臨終のときが往生のときではなく、信心のときが往生のときです。本願に遇うことができたそのとき、もう往生の旅がはじまるのです。いや、もっと正確に言いますと、すでに往生の旅がはじまっていることにそのとき気づくのです。としますと、浄土に往生するとは、これまでのいのちが新たないのちに置き換わることではありません。このイメージは往生浄土を輪廻転生と同一視するものですが、両者がまったく別ものであることは言うまでもありません。
 往生浄土を「無生の生」であるとするところは龍樹学徒である曇鸞の面目躍如というべきでしょう。
 『論註』にはこうあります、「かの浄土はこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。三有(三界と同じ、欲界・色界・無色界のことで、迷いの世界です)虚妄の生のごときにはあらざることを明かすなり」と。しかし「三有虚妄の生」と「無生の生」とはどう違うかをことばにしようとしますと困難をきわめます。「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」をもちいて、できる限り真実に近づきたいと思いますが、これまで述べてきましたように、こちらに「わたしのいのち」(「三有虚妄の生」)が、向こうに「ほとけのいのち」(「無生の生」)があるのではありません。「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち」なのです。「わたしのいのち」の裏側には「ほとけのいのち」があるのです。

タグ:親鸞を読む
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