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一二もかはることぞなき [はじめての『高僧和讃』(その88)]

(8)一二もかはることぞなき

 「本則三三の品」とありますのは、「もとはすなわち三三の品」ということで、『観経』に衆生を上品上生から下品下生までの9種類に分けて往生浄土のありようを説いているのをさしています。「わたしのいのち」は一人ひとりみな異なるということです。だれひとりとして同じではないということ。ところが、一人ひとりの「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」という点で言えば「一二もかはることぞなき」です。「わたしのいのち」としてはだれひとりとして同じではないが、「ほとけのいのち」としてはみな同じでかわるところがない。
 「かけがえがない」と言います。一人ひとりの「わたしのいのち」はまさにかけがえがありません。この感覚は生きものとして本質的なもので、この感覚がなくなりますと一つひとつのいのちがモノとみなされてしまいます。いつ頃からでしょう、自爆テロというおぞましいことばが新聞・テレビにしばしば登場するようになりました。自分の身体を爆弾として多くの人のいのちを奪うのですが、これはモノのとしての「わたしのいのち」が、他の多くの「わたしのいのち」たちを破壊するということです。どうしてそんなことができるのかと言えば、「わたしのいのち」は「大いなるいのち」(神とよばれます)の栄光のために存在するとみなされるからです。
 この「大いなるいのち」と「ほとけのいのち」は一見よく似ていますが、「わたしのいのち」との関係においてまったく異なります。
 「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」の栄光のために存在しているのではありません。そのようにとらえてしまいますと、「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」は別ものとなります。何度も言いますように、「わたしのいのち」の裏側には「ほとけのいのち」が貼りついていて、両者を引きはがすことはできません。「わたしのいのち」としてはだれひとりとして同じではないということと、「ほとけのいのち」としてはみな同じであるということはひとつなのです。

タグ:親鸞を読む
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