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不如実修行とは [はじめての『高僧和讃』(その91)]

(11)不如実修行とは

 つづく5首は一連のものですので、一気に読みましょう。

 「不如実修行(ふにょじつしゅぎょう)といへること 鸞師釈してのたまはく 一者信心あつからず 若存若亡(にゃくぞんにゃくもう)するゆゑに」(第48首)。
 「南無阿弥陀仏となえても、願いかなわぬそのわけは、ひとつ信心あつからず、あるかなきかのようなれば」。

 「二者信心一ならず 決定なきゆゑなれば 三者信心相続せず 余念間故(よねんけんこ)とのべたまふ」(第49首)。
 「ふたつ信心さだまらず、あちこちゆれるゆえなれば。みっつ信心持続せず、余念まじわるゆえなれば」。

 「三信展転相成(てんでんそうじょう)す 行者こころをとどむべし 信心あつからざるゆゑに 決定の信なかりけり」(第50首)。
 「三つ互いにつながるを、行者こころにとどむべし。信心不淳なるゆえに、決定の信えられない」。

 「決定の信なきゆゑに 念相続せざるなり 念相続せざるゆゑ 決定の信をえざるなり」(第51首)。
 「決定の信なきゆえに、念の相続するもなし。念の相続なきゆえに、決定の信えられない」。

 「決定の信をえざるゆゑ 信心不淳とのべたまふ 如実修行相応は 信心ひとつにさだめたり」(第52首)。
 「決定の信なきゆえに、信心不淳とはなりぬ。願いのかなうそのもとは、真実の信ただひとつ」。

タグ:親鸞を読む
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