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他力の信 [はじめての『高僧和讃』(その93)]

(13)他力の信

 「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」とは、聞名(信心)が称名(念仏)に先立つということです。南無阿弥陀仏はまず向こうから聞こえてきて、しかる後にこちらから称えるということ、この順序が肝心です。
 ぼくのおはこを持ち出しますと、「おかえり」が先で「ただいま」が後であるということです。普通は「ただいま」と言って帰り、「おかえり」と迎えてもらうものですが、ことの本質からすれば、まず「おかえり」があって、はじめて「ただいま」があると言わなければなりません。
 関西では「いってきます」と言って家を出るとき、「おはようおかえり」と送り出してくれます。この「おはようおかえり」の声がこころのなかにあってポカポカ温かいから、元気よく「ただいま」と帰っていけるのです。この「おはようおかえり」の声がありませんと、「ただいま」と帰っていける家がありません。
 「書信」とか「音信」とか「信書」とか言いますように、信とは「たより」であり「おとずれ」です。そして「たより」も「おとずれ」も向こうからやってきます。こちらから「たより」をすることもあるじゃないかと言われるかもしれませんが、どんなときに「たより」をするかを考えてみますと、それに先だって向こうから何らかの「たより」が届いていることに気づきます。
 誰かの顔が突然うかんできて、「懐かしいな、どうしているかな」と思う。そして「手紙でも書いてみようか」となるのではないでしょうか。その「顔がうかんでくる」というのが向こうからの「おとずれ」で、やはり「たより」は向こうからやってくると言わなければなりません。だからこそこちらから「たより」をするのです。「発信は受信である」(デリダ)ということです。
 向こうからやってきた信は「淳」であり「一」であり「相続」するものです。

タグ:親鸞を読む
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