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本願の大道 [はじめての『高僧和讃』(その95)]

(15)本願の大道

 次の和讃です。

 「万行諸善の小路より 本願一実(いちじつ)の大道に 帰入しぬれば涅槃の さとりはすなはちひらくなり」(第53首)。
 「自力修行の小路より、本願力の大道に、乗ればすなわち涅槃へと、おのずからして至り着く」。

 本願一実の大道に帰入したということは、すでに往生浄土の旅のなかにあるということです。そのことに気づいているということです。涅槃のさとりはまだ先のことですが(おそらくはいのち終わったあとのことでしょう)、しかしこの旅はそこへとつながっているのです。そしてこの旅は「陸道の歩行」ではなく「水道の乗船」です。「みずから」歩を進めていくのではなく、「おのずから」目的地に連れて行ってもらえるのですから、もう何のはからいも要りません。
 万行諸善の小路とは自力の小路で、本願一実の大道とは他力の大道ですが、前者から後者に「帰入しぬれば」と言われますと、どうしてもこちらに自力の小路があり、あちらに他力の大道があって、こちらからあちらに「移る」というイメージをもってしまいます。しかしそうイメージしますと、もっとも大事なポイントをはずしてしまうことになります。自力の小路から他力の大道に「移る」のではなく、自力の小路にいるままで、そこが他力の大道であることに「気づく」ということです。
 それに気づいてはじめて他力の大道はその姿をあらわすのであり、気づきませんと他力の大道などどこにもありません。そして自力の小路にいるとも思わず(他力の大道に気づくと同時に自力の小路にいることが分かるのですから)、ただこの道しかないと思って生きているだけです。夢から覚めてはじめて現実が姿をあらわし、同時にこれまで夢のなかにあったことが明らかになるのであり、夢のなかではひたすらこの世界しかないと思っているように。

タグ:親鸞を読む
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