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いのちの選別 [はじめての『高僧和讃』(その97)]

(17)いのちの選別

 「ほとけのいのち」に遇うことで、はじめてほんとうの「わたしのいのち」に遇うということ。
 これは一方では、「ほとけのいのち」に遇うことで「わたしのいのち」は虚妄のいのちであると自覚することです。「わたしのいのち」は「欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ、おほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえ」ないと思い知ることです。でも同時に、そうした虚妄のいのちが虚妄のいのちのままでかけがえがなく大切であると気づくことでもあります。なぜなら「わたしのいのち」は虚妄のいのちのままで「ほとけのいのち」ですから。
 「ほとけのいのち」に遇うことがなくても、自他のいのちは何よりも大切でしょう。でも「ほとけのいのち」との出あいがありませんと、いのちの大切さにおのずから序列がつけられます。「もっとも大切な」から、「まあまあ大切な」、「それほど大切ではない」、そして「なくてもいい」、いや「ない方がいい」へと。いのちの選別です。それはいかにも極端な発想と思われるかもしれませんが、出生前検診で遺伝子の異常が検出された胎児の多くが中絶されていることを考えますと、それほど特別なことではないと言わなければなりません。
 自力の小路と他力の大道に戻りますと、自力の小路がそのままで他力の大道であることに気づいたとき、自力の小路は虚妄の路として捨てられてしまうのではありません。むしろそうしてはじめて自力の小路が「この世にたったひとつの路」として抱きしめたくなるのです。それがどれほど「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」という虚妄に満ちたものであっても、そのままで「ほとけのいのち」なのですから。だからこそ自力の小路を歩むなかで「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」のであり、そして「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく」(『歎異抄』第9章)思えるのです。

タグ:親鸞を読む
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