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ただ浄土の一門のみありて [はじめての『高僧和讃』(その99)]

             第6回 道綽讃

(1)ただ浄土の一門のみありて

 さて道綽讃の第1首です。

 「本師道綽禅師は 聖道万行をさしおきて 唯有浄土一門を 通入すべきみちととく」(第55首)。
 「本師道綽禅師は、聖道門をさしおいて、ただ浄土の一門を、通れる道とさだめたり」。

 この和讃は『安楽集』巻上の終わりがけに「当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり」とあるのに依っていますが、「当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり」ということばは、道綽が身をもって味わった苦難の経験に裏うちされています。道綽の道綽たるゆえんはこの強烈な末法意識にあると言っていいと思います。彼が生きた時代はどんなふうだったか見ておきましょう。
 道綽は曇鸞と同じ山西省に生をうけました。西暦562年、曇鸞が亡くなって20年後にあたります。その間に東魏は北斉に、西魏は北周に取って代わられ、そして道綽の住む北斉は北周の圧迫を受けていました。北斉が北周に征服されますと、前に少しふれましたように、北周の武帝が出した廃仏令が14歳で出家したばかりの道綽に襲いかかり、道綽は亡国と廃仏という二重の災難をこうむることになります。世の中全体が戦乱と飢饉で疲弊の極にあったことは言うまでもありません。まもなく随の文帝が北周を倒し南朝・陳も征服して久しぶりに中国が統一されることになり、仏教も息を吹き返すことになりますが、この間の苦難の経験から「当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり」ということばが紡ぎ出されてきたに違いありません。
 さてしかし道綽は、「当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり」という思いから、ただちに「ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり」へと至ったわけではありません。

タグ:親鸞を読む
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