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一切衆生悉有仏性 [はじめての『高僧和讃』(その100)]

(2)一切衆生悉有仏性

 道綽が浄土の教えに帰入するのは48歳のときでした。生まれ故郷に近い石壁山玄中寺に入って、曇鸞を顕彰する石碑に出あったときだとされます。曇鸞が浄土の教えに目をひらくに至った経緯もドラマチックでしたが(第21首)、道綽が曇鸞の碑文を読んで浄土教に目覚めるというのもそれに劣らず劇的です。そういえばわが法然も経蔵で善導の『観経疏』散善義の一文に出会い専修念仏に開眼したのでした。このようなエピソードはみな、それぞれの人のなかで機が熟していたものが、あるとき何かのきっかけで急にかたちをとったということをあらわしています。そこには何か目に見えない力が働いていたとしか言いようがありません。
 道綽は48歳にして曇鸞の碑文と出会うまで『涅槃経』の研鑽と講説に打ち込んでいたようです。この経のエッセンスは「一切衆生悉有仏性(一切の衆生にことごとく仏性あり)」という教説にあり、道綽は末法の五濁悪世に苦しみ生きる人々にもあまねく仏性があるというこの教えに強く惹かれるものがあったに違いありません。しかし彼はそこにストンと肚に落ちないものも感じていたのではないでしょうか。己を含めて末法の世を生きる衆生をみるかぎり「一切衆生悉有煩悩(一切の衆生にことごとく煩悩あり)」という事実が否応なく迫ってくるからです。
 「一切衆生悉有仏性」には有無を言わさぬ真実が感じられるが、しかし同時に「一切衆生悉有煩悩」も事実として迫ってくる。このどうしようもない矛盾を抱え続けていた道綽の前に突然あらわれた碑文から不思議なひかりがやってきて、矛盾が矛盾のままで「そうか、そういうことか」と深く頷かされたのではないでしょうか。「一切衆生悉有仏性」にはどこかよそよそしさがあります。いわば中空に浮んでいるような感じで、それを手に取ろうとすると、スルリと逃げていく。「色即是空」や「生死即涅槃」と同じで、否応なく真実が感じられるのですが、どうしてもつかみ取ることができません。ところがあるときそれに突然つかみ取られる。

タグ:親鸞を読む
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