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機と教と時とそむけば修しがたく入りがたし [はじめての『高僧和讃』(その101)]

(3)機と教と時とそむけば修しがたく入りがたし

 道綽は『安楽集』の冒頭でこう言っています、「もし教、時機におもむけば修しやすく悟りやすし。もし機と教と時とそむけば修しがたく入りがたし」と。そして道綽は『大集経月蔵分(だいじっきょうがつぞうぶん)』の歴史観を参照しつつ、こう言います、「いまの時の衆生を計るに、すなはち仏世を去りたまひて後の第四の五百年に当れり。まさしくこれ懺悔(さんげ)し福を修し、仏の名号を称すべき時なり。もし一念阿弥陀仏を称すれば、すなはちよく八十億劫の生死の罪を除却す。一念すでにしかなり。いはんや常念を修せんをや。すなはちこれつねに懺悔する人なり」と。
 いまは末法のときで、浄土の教えこそ時と機にかなっているというのです。
 戦乱と廃仏を潜り抜けてきた道綽は『涅槃経』に説かれた「一切衆生悉有仏性」の真実をどうにかしてわがものにしようと研鑽をつんできたのですが、「もし機と教と時とそむけば修しがたく入りがた」いことを痛感したと思われます。そこから、末法の五濁悪世に生きるものが聖道を歩もうとすることには土台無理がある、ほら、もう目の前に浄土の門がひらいているではないか、どうしてそこをくぐらないのか、というわけです。次の和讃はそれを詠っています。

 「本師道綽大師は 涅槃の広業さしおきて 本願他力をたのみつつ 五濁の群生すすめしむ」(第56首)。
 「道綽大師これまでの、涅槃の講義さしおいて、本願他力たのみつつ、五濁の諸有にすすめたり」。

 末法の世の五濁の群生には聖道門は「修しがたく入りがた」いことについて、道綽はこう言います、「その聖道の一種は、今の時証しがたし。一には大聖(釈迦)を去ること遥遠なるによる。二には理は深く解は微なるによる」と。なるほどそれはそうとしまして、しかしどうして「ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり」と言えるのでしょう。なぜ道綽が「涅槃の広業さしおきて 本願他力をたの」むようになったのか、もう一度そこに立ち返りたいと思います。

タグ:親鸞を読む
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