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若不生者、不取正覚 [はじめての『高僧和讃』(その102)]

(4)若不生者、不取正覚

 「一切衆生悉有仏性」ということばには、否と言わさぬ真実味がありますが、でも何となくよそよそしい顔つきをしています。それは、その裏に「一切衆生悉有煩悩」という事実が貼りついていて、何ともならない矛盾を孕んでいるからです。「一切衆生悉有煩悩」がそれほど気にならなければ、「一切衆生悉有仏性」が理解できたような感じになるかもしれません。しかし、末法の世となり、われもひとも五濁にまみれた身であることが否応なく目の前に突き付けられてきますと、そこにどうしようもない矛盾を感じざるをえません。何とかしてその矛盾したことがらをつかみ取ってやろうとしましても、指の間からスルリとすり抜けてしまいます。
 そこに本願他力の出番があるのです。
 本願は「若不生者、不取正覚(もし生まれずば、正覚をとらじ)」に約めることができますが、これは「一切の衆生が仏にならなければ、わたしも仏にならない」という誓いで、そのなかに「一切衆生悉有仏性」が含まれています。一人の例外もなくみな仏となることができるからこそ、われ人ともに仏にならん、と誓うことができるのです。本願とは「一人の例外もなくみな仏性があり、かならず仏となって救われる」という「よきたより」であるということです。大事なことは「一切衆生悉有仏性」ということばが「よきたより」として向こうからやってくるということです。こちらからつかみ取ろうとしても指の間からすり抜けてしまう「一切衆生悉有仏性」が向こうからやってくる。
 『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性」と『無量寿経』の「若不生者、不取正覚」は意味するものは同じだということです。ただ『涅槃経』では、それを自分でつかみ取らなければなりませんが、『無量寿経』では向こうから「よきたより」として届けられるということ、この違いが決定的に重要です。矛盾はこちらからつかみ取ろうとすると火傷を負ってしまいますが、不思議なことに、向こうからやってきますと胸にすんなりおさまり、何ともいえない喜びが与えられます。『涅槃経』の真理は『無量寿経』にある、この確信をえた道綽は「涅槃の広業さしおきて 本願他力をたの」むようになったと思われます。

タグ:親鸞を読む
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