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娑婆と浄土 [はじめての『高僧和讃』(その105)]

(7)娑婆と浄土

 次の一首です。

 「鸞師のをしえをうけつたへ 綽和尚はもろともに 在此起心立行(ざいしきしんりゅうぎょう)は 此是自力(しぜじりき)とさだめたり」(第58首)。
 「師曇鸞より教えうけ、娑婆で菩提の心おこし、どれほど修行しようとも、しょせん自力にすぎないと」。

 「在此起心立行は 此是自力とさだめたり」と言いますのは、『安楽集』に「ここにありて心を起し行を立て(在此起心立行)浄土に生ぜんと願ずるは、これはこれ自力なり(此是自力)」とあるのによっています。
 そして道綽はそれにすぐつづけて他力についてこう言っています、「命終の時に臨みて、阿弥陀如来光台迎接(こうだいこうしょう)して、つひに往生を得るをすなはち他力となす」と。この娑婆でどれほど修行しようと、しょせん自力に過ぎず、悟りに至ることはできないから、阿弥陀如来の本願他力で往生をえて、仏にならしていただくのだ、ということです。
 ここで気になるのが、まず「在此(ここにありて)」とあり、それにつづくところに「命終の時に臨みて(臨命終時)」とあることです。ここ、つまり娑婆で自力の修行をつむことと、いのち終わったのちに他力で浄土に往生することとが対比されているのです。この娑婆では悟りを得ることができないから、いのち終わったあと浄土に往生させていただき、そこで仏となるということ、ここに臨終往生の思想がはっきり姿を現しています。
 ちょっと大胆なことを言わせていただきますと、龍樹・天親・曇鸞までと、道綽から善導へとつながる流れとの間にひとつの断絶があるような気がするのですが、それを象徴するのがこの臨終往生です。往生とは何かという点について、『論註』と『安楽集』との間にひとつの断絶があるのではないかと思うのです。

タグ:親鸞を読む
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