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『無量寿経』と『観無量寿経』 [はじめての『高僧和讃』(その106)]

(8)『無量寿経』と『観無量寿経』

 浄土教が主として依拠する経典は『無量寿経』と『観無量寿経』と『阿弥陀経』の浄土三部経ですが、曇鸞までは『無量寿経』がその中心にありましたのが、道綽から後は『観無量寿経』がそれに取って代わられたと言うことができます。天親の『浄土論』はその正式名称が『無量寿経優婆提舎願生偈』ですし、曇鸞はそれを注釈して『論註』を著しましたから、どちらも『無量寿経』に依拠しているのですが、道綽の『安楽集』は『観無量寿経』が下敷きになっています(そのことは、たとえば、さまざまな経を比較するときに、「この観経は」と言っていることにあらわれています)。
 『無量寿経』と『観無量寿経』は、しばしば前者が良薬について説き、後者が病人について説いているというように対比されます。前者は本願名号というすばらしい薬があることを説いているのに対し、後者はその薬を必要とする韋提希や阿闍世に焦点があてられているというように。中国では南北朝ぐらいから『観経』が注目されるようになったと言われますが、前に述べましたように、戦乱や飢饉、そして廃仏といった時代の混乱のなかで『観経』に人気が出てきたのはよく理解できます。韋提希や阿闍世が病人であるように、自分たちも時代の病気に悩まされているという実感があったでしょうから。
 さてしかし親鸞はこの両経について、前者が真実の教えであり、後者は方便の教えであると言い切ります。
 方便とは、それ自体が真実ではなく、人を真実へと導くために仮にとられる手立てということです。『観無量寿経』を方便の教えであるとするのにはさまざまな意味がありますが、そのひとつが臨終来迎です。この経典の後半に九品往生(上品上生から下品下生までの九種の往生)が説かれますが、そのいずれにおいても「いのち終わらんと欲するとき(命欲終時)」とか「いのち終わる時に臨んで(臨命終時)」という文言があらわれ、往生するのが臨終の時であることが明言されています。しかも、そのときの様子が具体的に描写されていますから、くっきりとした像をむすび、往生のイメージを決定づけたと思われます。

タグ:親鸞を読む
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