SSブログ
はじめての『高僧和讃』(その107) ブログトップ

往生は臨終のときか [はじめての『高僧和讃』(その107)]

(9)往生は臨終のときか

 では『無量寿経』はどうか。いくつかの例外を除けば、この経において往生が臨終の時であるとは書かれていません。その例外といいますのは、まず第十九願に「いのちの終わる時に臨みて(臨寿終時)」とあるのと、いわゆる三輩往生の段(往生人を上輩、中輩、下輩の三種に分け、それぞれの往生のあり方を説く段)にも同じく「臨寿終時」とあり、この二か所では往生が臨終であることがはっきり書かれています。それ以外の箇所では、往生がいつであるかは言及されていませんし、何箇所かでは信を得たそのときであると明記してあります。その代表が第十八願成就文であり、「かのくにに生ぜんと願ずれば(欲生彼国)、すなはち往生をえ(即得往生)、不退転に住す(住不退転)」とあります。
 親鸞はこの「即得往生」こそ真実であり、「臨終往生」は方便であると言い切ります。
 『末燈鈔』第1通に、「真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚のくらゐに住す。このゆへに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき往生またさだまるなり」とある通りです。親鸞にとって第十八願が真実の願であり、第十九願(および第二十願)は方便の願であって、三輩往生の段も第十九願の成就文として『観経』の九品往生と同じく方便と見なければならないとします。したがって「臨終往生」はあくまで方便の教えであるとするのが親鸞の『無量寿経』解釈です。
 一方、道綽は『観無量寿経』を下敷きにして『無量寿経』を読みますから、第十九願とその成就文に出てくる「臨終往生」がもとになり、それを他のすべての箇所に及ぼしていくのです。たとえばこうです、「このゆゑに大経にのたまはく『もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずば正覚をとらじ』と」。「大経にのたまはく」と言うものの、これは『大経』の文そのままではなく、『観経』を下敷きとして『大経』の第十八願を大幅に読みかえているのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『高僧和讃』(その107) ブログトップ