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暴風駛雨 [はじめての『高僧和讃』(その108)]

(10)暴風駛雨

 次の和讃です。

 「濁世(じょくせ)の起悪造罪は 暴風駛雨(ぼうふうしう)にことならず 諸仏これらをあはれみて すすめて浄土に帰せしめり」(第59首)。
 「われらこの世でなす悪は、暴風駛雨のようなもの、諸仏われらをあわれんで、帰ってこいとよびかける」。

 これは『安楽集』の次の一文にもとづきます、「もし起悪造罪を論ぜば、なんぞ暴風駛雨に異ならんや。ここをもって諸仏の大慈、勧めて浄土に帰せしめたまふ」。駛雨とはスコールのことで、われらが生きている間になす悪は、猛威を振るう暴風やものすごいスコールのようなものだというのです。この言い回しはぼくらの悪のありようを実にうまく言い当てているのではないでしょうか。悪といいますと、ぼくらの内にあって、ときに外に顔を出すとイメージしがちですが、悪をなすその瞬間をとらえれば、悪はむしろ外にあって、暴風やスコールのようにぼくらをその中に巻き込み、もみくちゃにしてしまうと言うべきでしょう。
 この暴風駛雨はいつなんどきやってくるか分かりません。そして、悪とは無縁の人間ですという顔をしている人も、この暴風駛雨がやってくればもうひとたまりもありません。悪をなすかどうかは、この暴風駛雨に襲われるかどうかによるのであって、その人のこころが善いか悪いかによるのではない、これが宿業の感覚です。「なにごとも、こころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし」(『歎異抄』第13章)。この感覚があるかどうか、これが決定的です。

タグ:親鸞を読む
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