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悪人であるがゆえに [はじめての『高僧和讃』(その113)]

(15)悪人であるがゆえに

 ここで思い起こしたいのは「悪人正機」です。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」。これをうっかり、悪人であるにも「かかわらず」救われると受けとってしまってはこの思想の真の衝撃力を取り逃がしてしまいます。むしろ悪人であるが「ゆえに」救われると受けとるべきです。自分は「一生造悪の衆生」であると気づくが「ゆえに」、そんな自分のために本願があると気づくことができるのです。逆に、「一生造悪の衆生」であるという気づきがありませんと、自分のために本願があることに気づくこともありません。「本願?何だよそれ」で終わってしまいます。
 ここであらためて確認しておきたいと思いますが、悪人であるがゆえに救われるというのは、悪人の気づきがあるがゆえに本願の気づきがあるという意味です。ぼくらはともすると本人の気づきとは関係なく悪人がいると思ってしまいます。確かに法律では何が罪となるかが客観的に(本人の意識に関係なく)定められなくてはならず、世間では罪を犯した人間を悪人とよぶのが普通です。でもそれは社会秩序を守るための制度として設けられた線引きにすぎず、法的に悪人とされても、本人は「オレは悪人などではない」と思っていることはいくらでもあります。
 親鸞が「いはんや悪人をや」というときの悪人は、法的・社会的な悪人ではなく、気づきとしての悪人です。それを誤解するところから、いわゆる「造悪無碍」の誤りが生まれてきます。「悪人だから救われるのか、ならばもう遠慮することはない、堂々と悪をしよう」と考える人にとっての悪人とは法的・社会的な意味の悪人です。しかしここで言われている悪人とは気づきとしての悪人ですから、そこからこんな発想が出てくるはずがありません。「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」という気づきからは深い懺悔が出てくるのみです。
 そしてその懺悔のなかから「かの阿弥陀仏の四十八願は、衆生を摂取してうたがひなくおもんぱかりなければ、かの願力に乗じてさだめて往生をう」との気づきが生まれてくるのです。「あゝ、こんな自分のために本願があるのだ」という気づきは「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」という気づきからしか生まれてこないということ、機の深信は法の深信とひとつであるということです。

                (第6回 完)

タグ:親鸞を読む
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