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十方諸仏に証をこふ [はじめての『高僧和讃』(その114)]

            第7回 善導讃(その1)

(1)十方諸仏に証をこふ

 早速ですが、善導讃の第1首を読みましょう。

 「大心海より化してこそ 善導和尚とおはしけれ 末代濁世(まつだいじょくせ)のためにとて 十方諸仏に証をこふ」(第62首)。
 「弥陀の化身といわれたは、善導和尚そのひとよ、末代の世のひとのため、諸仏の証をこいたもう」。

 ここで「大心海」といいますのは、曇鸞が『讃阿弥陀仏偈』において阿弥陀仏の名として上げているものの一つですから、「大心海より化してこそ 善導和尚とおはしけれ」とは、善導は阿弥陀仏の化身であるということです。『尊号真像銘文』のなかに「(智栄という人が)善導の別徳をほめたまひていはく、『善導は阿弥陀仏の化身也』とのたまへり」とあり、当時、善導が阿弥陀仏の化身とまで敬われていたことを示しています。それはひとへに彼の主著『観経疏』によると言っていいでしょう。
 善導はこの書において、いならぶ先輩学者たち(浄影寺慧遠や天台智顗など)の通説に反対して、彼自身の画期的な『観経』解釈を打ち出しているのです。
 彼は『観経疏』の末尾でこう言っています、「某(それがし)、いまこの観経の要義を出して、古今を楷定(かいじょう、基準を定める)せんと欲す」と。自分の考えこそが『観経』の正しい解釈であり、今後これが『観経』の読み方の基準となるべきであると主張しているのです。そしてもし自分の考えが正しいならば、夢のなかで霊験を示していただきたいと願い、実際にさまざまな不思議な夢を見たというのです。「十方諸仏の証をこふ」とはそういう意味です。夢において諸仏に証明を請うなどと言いますと、浮世離れした話のように感じられますが、真理というものをどうとらえるかという点からみますと、興味深いものがあります。

タグ:親鸞を読む
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