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功徳の蔵 [はじめての『高僧和讃』(その117)]

(4)功徳の蔵

 善導讃の第2首です。

 「世々に善導いでたまひ 法照(ほっしょう)・少康(しょうこう)としめしつつ 功徳蔵(くどくぞう)をひらきてぞ 諸仏の本意とげたまふ」(第63首)。
 「善導和尚つぎつぎと、法照・少康となのりいで、名号の蔵ひらいては、諸仏の願いとげられた」。

 法照も少康も善導亡きあとその教えを継承した唐代の僧で、ともに後善導と称されます。善導の生まれ変わりということで、「世々に善導いでたまひ」とはそういう意味です。善導が播いた念仏の種がさまざまなところで芽を出し、花を咲かせたと言えるでしょう。『ヨハネ伝』に「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」とありますが、たった一粒の麦が何百、何千もの実を結び、それぞれがまた何百、何千もの実を結ぶことで多くの人の生きる糧となるように、善導の播いた念仏の種は多くの実を結ぶことで唐代の人々の「こころの糧」となっていったに違いありません。
 功徳蔵ということばが出てきますが、これも曇鸞が『讃阿弥陀仏偈』において阿弥陀仏の名として上げているひとつで、功徳(善きもの)のつまった蔵という意味です。親鸞はこれに左訓して、「名号を功徳蔵とまうすなり。よろずの善根を集めたるによりてなり」と記しています。名号には「よろずの善根(功徳のもと)」が収められていて、そこから必要なだけ「こころの糧」が与えられるということです。ぼくらにとって蔵は自分で建て、そこに善きものをせっせと貯め込んで、必要に応じてそこから取り出してくるものですが、名号という蔵はもうとっくの昔から建てられていて、そこから「こころの糧」が無尽蔵にやってきているのです。
 「からだの糧」はこちらから手に入れなければなりませんが、「こころの糧」は向こうから必要なだけやってきている。問題はそのことに気づくかどうかです。

タグ:親鸞を読む
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