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女人成仏 [はじめての『高僧和讃』(その118)]

(5)女人成仏

 次の和讃です。

 「弥陀の名願(みょうがん、名号と本願)によらざれば 百千万劫すぐれども いつつのさはりはなれねば 女身をいかでか転ずべき」(第64首)。
 「南無阿弥陀仏なかりせば、どれほど時が経とうとも、五つの障り邪魔をして、女人の身にて証をえず」。

 このうたのもとになっているのは『観念法門(かんねんぼうもん)』の次の一文です。「また一切の女人もし弥陀の名願力によらずは、千劫・万劫・恒河沙等の劫にも、つひに女身を転ずることを得べからず」。善導はこの書物で念仏の利益を五つ上げているのですが(滅罪増上縁、護念増上縁、見仏増上縁、摂生増上縁、証生増上縁)、その一つである摂生増上縁(しょうしょうぞうじょうえん、念仏によりすべての衆生が往生させていただける)を説くなかで、特に女人の往生について触れているのです。
 古くから女人は仏になれない(五障といい、女人は梵天や帝釈天など五つのものになれないのですが、その一つが仏になれないということです)とされてきましたが、法蔵菩薩は第35願で「女人ありて、わが名字を聞き、歓喜信楽し、菩提心を発(おこ)し、女身を厭悪(えんお)せん。いのち終わりてのち、また女像とならば、正覚をとらじ」と誓願していますから、結局女人も男子に変じて成仏できるということになります。そのことを善導は先の文にすぐ続いて「いまあるいは道俗ありて、女人浄土に生ずることを得ずといはば、これはこれ妄説なり、信ずべからず」と述べています。
 女人は成仏できないというのは女性差別の極地というべきです。世俗的なことに関してさまざまに差別された挙句、救いからも見放されるというのは何とも理不尽ですが、浄土の教えはそうした差別をすっきり撤廃します。まず第18願において「一切の衆生」が「もし生まれずば、正覚をとらじ」とあり、一切の衆生には言うまでもなく女人も含まれます。そして、さらに念をいれるように、第35願で特に女人について男子に変成して成仏できるとするのです。

タグ:親鸞を読む
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