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本願他力に気づく [はじめての『高僧和讃』(その122)]

(9)本願他力に気づく

 自力を捨てるという言い回しにも注意が必要です。自力は捨てようとして捨てられるものではないからです。何かを捨てようとして捨てるのも自力であることに変わりありません。「自力を捨て、他力を選ぶ」と言いますと、自力を捨てる「わたし」、他力を選ぶ「わたし」があります。まずもって「わたし」があって、しかるのちに自力を捨て、他力を選ぶという構図になりますが、これは紛れもなく自力の構図です。では他力と何か。気がついたら自力から離れていたということ、あるいは、他力にふと気づいていたということです。
 「気づく」ということ、ここに鍵があります。
 気づくのも「わたし」ではないか、という疑問が出されることでしょう。おっしゃる通り、気づくのは「わたし」であって、他の誰でもありません。しかし、肝心なのは「わたし」が気づきを起こすのではないということです。「わたし」に気づきが起こるのは間違いありませんが、「わたし」が気づきを起こすのではないということ、この微妙な違いにこそ問題の本質が潜んでいます。
 「わたし」〈に〉と「わたし」〈が〉。どう違うのでしょう。
 「わたし」と気づきの関係を考えてみますと、まず気づきがあり、そののちに「わたし」が現れます。普通は、まず「わたし」があり、そののちに何かをするという順序ですが、気づきにおいてはそれが逆転するのです。「わたし」は気づきに後れをとるということです。西田哲学的に言いますと、気づきにおいては主客未分で、気づきのなかに対象と「わたし」が未分のまま溶け合っています。そののちに、一方に気づきの対象が現われ、他方に「わたし」が顔を出すのです。
 本願他力にふと気づくとき、本願他力と「わたし」は気づきのなかに溶け合っています。そののちに、一方に本願他力が現われ、他方に「わたし」が顔を出すのです。

タグ:親鸞を読む
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