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専修と雑修 [はじめての『高僧和讃』(その123)]

(10)専修と雑修

 次の和讃です。

 「助正(じょしょう)ならべて修するをば すなはち雑修(ざっしゅ)となづけたり 一心をえざるひとなれば 仏恩報ずるこころなし」(第66首)。
 「助正ならべておこなうを、とくに雑修となづけます。真の信心なきゆえに、仏恩報ず思いなし」。

 先に正行と雑行の区別が出ましたが、その正行のなかの称名が正定業で、後の読誦、観察、礼拝、讃嘆供養が助業です。『観経疏』「散善義」に「一心にもはら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近をとはず、念々にすてざるもの、これを正定の業となづく。かの仏の願に順ずるがゆへに。もし礼誦等によるをば、すなはちなづけて助業とす」とあり、この一文が600年後にわが法然の目に飛び込んで、日本に専修念仏の新しい門が開かれることになったのはよく知られています。
 さて、この和讃のポイントは「ならべて」と「一心」とのコントラストにあります。前者が雑修で後者が専修です。
 正定業の称名と助業の読誦・観察・礼拝・讃嘆供養とは同一平面上に並んでいるのではありません。正行に五つあると言われますと、どうしてもその五つを同じ平面に並べ、そのなかで称名が正、あとの四つが助というように、並べる順番の差ぐらいに受けとってしまいますが、両者は位相が違うのです。すなわち称名は他力の位相、あとの四つの助業は自力の位相ということ。
 ことばがぼくらを誤ったイメージに誘うことを「往生」を例として見ましたが(7)、それは「専修」についても言えます。「専ら称名する」と言われますと、どうしてもそれを「わたし」がするものとイメージします。しかし「わたし」が「専ら称名する」のでしたら、「わたし」が「浄土三部経を読誦する」ことなどと同じ平面に並んでしまい、差があるとしても並べる順番の差にすぎなくなります。

タグ:親鸞を読む
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