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現世をいのる [はじめての『高僧和讃』(その125)]

(12)現世をいのる

 次の和讃です。

 「仏号むねと修(しゅ)すれども 現世をいのる行者をば これも雑修(ざっしゅ)となづけてぞ 千中無一ときらはるる」(第67首)。
 「念仏だけときめたれど、現世をいのるひとなれば、これも雑修とおなじこと、千に一人も生まれない」。

 雑修とは念仏を他の行(読誦・観察など)と「ならべて」なすことで、専修とは念仏を「もはら」なすことですが、念仏を「もはら」なしていても、それが「現世をいのる」念仏ならば、これまた雑修であり、往生できないと言うのです。これまで見てきましたように、雑修とは自力で、専修が他力ですから、たとえ「念仏のみ」だとしても、それが「現世をいのる」念仏でしたら、明らかに自力の念仏になりますから、これまた雑修であるというのはのみ込みやすい道理です。
 ただ「現世をいのる」ということばをどのように理解すればいいか、ここには悩ましい問題があります。といいますのは、親鸞は『教行信証』「信巻」に「現生十益(げんしょうじゅうえき)」を上げていますし、『浄土和讃』では「現世利益和讃」が詠われていて、念仏には現世に大きな利益があるとはっきり言っているからです。因みに「現生十益」として「一には冥衆護持(見えない力に護られる)の益、二には至徳具足(さまざまな功徳がそなわる)の益、(中略)十には入正定聚(必ず仏となることができる)の益」が上げられます。
 そもそも救いは「いま、ここ」でなければ意味がありません。来世において救われるということが意味をもつとしても、「来世において救われる」ことそのものが「いま、ここ」での救いとなるからでしかありません。「現生十益」の最後に上げられている「入正定聚の益」というのは、来世において必ず仏になることが「いま、ここ」での救いになるということです。としますと、念仏は「現世をいのる」ものと言えるのではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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