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念仏には現生十益がある [はじめての『高僧和讃』(その126)]

(13)念仏には現生十益がある

 しかし「現世をいのる」といいますと、普通には、無病息災・長寿延命などをいのることを指します。この和讃で「現世をいのる行者をば これも雑修となづけてぞ」と詠われているのは、このような現世利益のことを言っているのは間違いありません。そして無病息災・長寿延命をいのって念仏するのは雑修であり、自力の念仏であるというのは問題のないところでしょう。では念仏に冥衆護持の益や至徳具足の益、あるいは入正定聚の益があるというのはどうなるのでしょう。
 冥衆護持・至徳具足・入正定聚と無病息災・長寿延命とはどう違うかと考えるのは有効とは思えません。むしろそうした現世利益と念仏との関係に思いを致すべきです。
 念仏に現世利益がある、これは確かなことです。ただ、これには二通りの理解ができます。一つは、念仏することにより現世利益がある、だから、現世利益をえるためには念仏しなければならない、と理解することです。これは冥衆護持・至徳具足・入正定聚であっても無病息災・長寿延命であっても関係ありません、とにかく現世利益を得ようと思ったら念仏しなければならないと考える。これが雑修としての念仏、自力の念仏であることは多言を要しません。
 しかし、念仏には現世利益がある、にはもう一つの理解があります。
 それは、念仏することにはおのずから現世利益が伴うという理解です。あるいは念仏することそのものが現世利益であると言ってもいい。念仏することによって冥衆護持などの利益がえられるのではありません、念仏することと冥衆護持などの利益がえられることはひとつなのです。この場合、無病息災・長寿延命などの利益については、それがえられる保証はまったくありません。念仏をしていても病気になりますし、どんな災難に見舞われるか分かったものではありません。しかし、どんな病気になっても、どんな災難に見舞われても、冥衆に護持され、至徳が具足し、正定聚としてこころ安らかに生きることができる、これが親鸞のいう「現生十益」です。

タグ:親鸞を読む
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