SSブログ
はじめての『高僧和讃』(その127) ブログトップ

浄土の行 [はじめての『高僧和讃』(その127)]

(14)浄土の行

 次の和讃です。

 「こころはひとつにあらねども 雑行雑修これにたり 浄土の行にあらぬをば ひとへに雑行となづけたり」(第68首)。
 「意味は同じでないけれど、雑行雑修ひとしくて、浄土の行と違うゆえ、みな雑行となづけらる」。

 雑行は正行に対し、雑修は専修に対しますから、その意味ははっきり異なりますが、いづれにしても自力の行ですから、まとめて雑行とよばれるというわけです。どの行をなすかの問題ではなく、自力であるか他力であるかが大事であるということです。さてここで「浄土の行」ということばが出てきますが、これは「他力の行」と言い換えることができます。
 しかし「他力の行」とは何ともパラドキシカルな表現と言わなければなりません。行ということばは、ある目標に向かって「わたし」がしなければならないこととしか受け取れません。行は自力でしかないと思われるのに「他力の行」と言われる。これをどう考えればいいのでしょう。
 よく言われるのは、「他力の行」というのは、それがわれらのなす行ではなく、法蔵菩薩がわれらのために修めてくださった行であり、だからこそ大行とよばれるのだということです。『大経』には「不可思議の兆載永劫において、(法蔵)菩薩の無量の徳行を積植(しゃくじき)せしゆえなり」とあり、その徳行がわれらに廻向されるのだと言われるのです。したがって、それは法蔵菩薩の大行であり、われらから言えば「他力の行」であると。
 さてしかし、法蔵の大行が廻向されるとはどういうことか、分かったようで、よく分からない。親鸞はこの問いに「行巻」で答えを与えてくれます。「大行といふは、すなはち無碍光如来のみなを称するなり。…しかるにこの行は大悲の願よりいでたり。すなはちこれ諸仏称揚の願となづけ、また諸仏称名の願となづく」と。
 第十七願のことです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『高僧和讃』(その127) ブログトップ