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定散二心をひるがへし [はじめての『高僧和讃』(その129)]

(16)定散二心をひるがへし

 次の和讃です。

 「善導大師証をこひ 定散二心(じょうさんにしん)をひるがへし 貪瞋二河(とんじんにが)の譬喩(ひゆ)をとき 弘願(ぐがん)の信心守護せしむ」(第69首)。
 「諸仏の証を願いつつ、定散二心ひるがえし、二河白道の譬えにて、弘願の信を勧めらる」。

 善導は『観経』の教えは「定散二心」にあるのではなく「弘願の信心」にあるのだということを諸仏に証明を請いながら人々に説いたのだということです(「善導大師証をこひ」とは、第62首に「十方諸仏に証をこふ」とあったのと同じことです)。「定散二心」とは「自力のこころ」、「弘願の信心」が「他力のこころ」であることは言うまでもありません。ここで注目したいのは「定散二心をひるがへし」という言い回しです。自力のこころを「ひるがえして」他力のこころになるということ、ここに自力と他力の微妙な関係がよくあらわされています。
 手の平をひるがえすように、と言います。これまで表側にあった手の平をひるがえしますと、その裏の手の甲が表になります。このように手の平と手の甲とは瞬時にひっくり返すことができますが、自力のこころと他力のこころも手の平と手の甲のような関係にあると言えます。つまり、自力のこころは、それを消去して、新たに他力のこころをつくりだすのではなく、どちらもはじめからあって、あるときは自力のこころが表に出ているが、次の瞬間にひっくり返って裏の他力のこころが表となるということです。そして、他力のこころが表になったとしても、自力のこころが消えてなくなったわけではありません、ただ裏にまわっただけです。
 しかし、手の平をひるがえすのと自力のこころをひるがえすのがパラレルなのはここまでです。

タグ:親鸞を読む
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