SSブログ
はじめての『高僧和讃』(その130) ブログトップ

二河白道の譬え [はじめての『高僧和讃』(その130)]

(17)二河白道の譬え

 手の平の場合と違い、自力のこころは「みずから」ひるがえすことはできません。みずからひるがえすことも自力ですから。自力のこころは「おのずから」ひるがえるしかありません。そして自力のこころがおのずからひるがえるということは、実は、自力のこころの裏に他力のこころがあると「気づく」ことです。そして、他力のこころに気づくことで、はじめて自力のこころを自力のこころと気づくことができるのです。他力のこころの気づきと自力のこころの気づきはひとつであるということ、これが「ひるがえる」ということのほんとうの意味です。
 二河白道の譬え(貪瞋二河の譬え)もそのように読む必要があります。
 この譬えはよくできた譬えであると思いますが、どんな譬えもそうであるように、そこから誤ったイメージを懐いてしまう危険があります。貪瞋二河の真ん中に幅4.5寸の白道があり、それが彼岸につながっているということから、貪瞋二河と彼岸の浄土とが空間的に分離していて、それを信心の狭い白道がつないでいるというイメージがうかびます。さてしかし貪瞋二河と浄土とはこのように分離しているものでしょうか。むしろ手の平と手の甲のように、表裏の関係にあるのではないか。貪瞋二河がひるがえると、そこに浄土があり、そして浄土があらわれたからといって貪瞋二河がなくなってしまうわけではなく、その裏にちゃんと控えている、というように。
 としますと、白道といいますのは浄土へ導いてくれる道というよりも、そこがもう浄土そのものです。「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)とありますように、白道にいるひとは、貪瞋二河のまっただ中にありながら、もうすでに浄土にいるのです。

                (第7回 完)

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『高僧和讃』(その130) ブログトップ