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経道滅尽ときいたり [はじめての『高僧和讃』(その131)]

             第8回 善導讃(その2)

(1)経道滅尽ときいたり

 次の和讃です。

 「経道滅尽(きょうどうめつじん)ときいたり 如来出世の本意なる 弘願真宗にあひぬれば 凡夫念じてさとるなり」(第70首)。
 「仏法尽きるときなれど、如来世に出るねらいたる、弥陀の弘願に遇うたなら、凡夫身に染み救われる」。

 経道滅尽というのは、法滅のときを指します。行も証もなく、ただ教だけがある末法一万年も過ぎて、その教も滅するときが法滅です。ただ弥陀の本願の教えが説かれたこの経だけは法滅後も百年間とどめようと『大経』に書かれています。ですから、経道がすべて滅尽するときがきても、弥陀の本願に遇うことができさえすれば救われるのだと詠われているのです。ではその百年が過ぎた後はどうなるのだろうと心配になりますが、『大経』そのものがこの世から姿を消したとしても、そこに説かれた教えが消えるわけではなく、人から人へとリレーされていくに違いありません。
 しかし経道が滅尽しても弥陀の本願は滅尽しないのはどうしてでしょう。
 書かれた文字は消すことができますが、声として聞こえてくる本願は消すことができないということです。ここで、経典に書かれた文字と耳に届く声とはまったく異なるということに思いを潜めてみたい。文字は「書かれたことば」で、声は「語られたことば」ですが、どちらもことばであることには違いありません。どう異なるのでしょう。
 たとえば「生死即涅槃」。
 大乗経典には「生死即涅槃」と書いてあり、われらはそれを読んで、何を意味するのかを理解しようとします。「われらは生死の迷いのなかにあるが、そのままでもう迷いから離脱し、すでに救われている」ということで、ここには深い真理が湛えられているのでしょうが、しかし文章としてはまったき矛盾です。「迷いのなかにある(救われていない)、しかし救われている」、これをこのまま飲み込むことはできません。

タグ:親鸞を読む
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