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書かれたことばと語られることば [はじめての『高僧和讃』(その132)]

(2)書かれたことばと語られることば

 一方、本願の声とは「汝は“罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなし”、しかし汝はそのままで“願力に乗じて往生をう”」というものです。これも「汝はつねに流転している(救われていない)、しかし救われている」ということですから、意味内容としては「生死即涅槃」と変わらず、まったき矛盾です。ところがこの声は何の抵抗もなく、というより乾いた砂地に水が沁みこむように、ぼくらのこころに染みとおっていきます。
 書かれたことばは、それが矛盾したものである場合、どうにも飲み込むことができないのに、語られたことばは、それが矛盾したものであろうと、いや、矛盾しているがゆえに、すーっと胸に染みこむ。これはどうしたことでしょう。書かれたことばと語られたことばにはどんな違いがあるのでしょう。これを「文字と声の違いは何か」と考えるのではなく、ことばを「こちらから」捉えようとするのと、「向こうから」やってくることばに捉えられるのとの違いと考えるべきです。
 書かれたことばは、それを眼でとらえて「こちらから」その意味を理解しようとするのが普通ですが、場合によっては、書かれた文字から声が聞こえてくるように感じることもあります。そのときは、それが書かれたことばであっても、「向こうから」やってくることばに捉えられているのです。ことばを「こちらから」捉えようとしますと、そこに矛盾があるときは捉えきれません。無理につかもうとしても、指の間からスルリと逃げられます。ところが「向こうから」やってきたことばに捉えられてしまいますと、そこに矛盾があろうと、いや、矛盾があるからこそ、もうそのなかでたゆたっています。
 「弘願真宗にあひぬれば」の「遇う」とは、「向こうから」やってくることばに捉えられるということです。そして経典に書かれたことばがすべて滅尽したとしても、「向こうから」やってくることばは不滅です。

タグ:親鸞を読む
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