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悪人こそ救われる [はじめての『高僧和讃』(その134)]

(4) 悪人こそ救われる

 『歎異抄』第1章の「弥陀の本願をさまたぐる悪なきゆへに」ということばは「悪人でも救われる」と言い換えることができるでしょう。一方、第3章の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」は「悪人こそ救われる」と言い換えることができます。「悪人でも救われる」と「悪人こそ救われる」。前者は穏当で、すんなり頭におさまりますが、後者はあまりに破天荒で、「どうしてそんなことが言えるのか」と激しい抵抗にあいます。『歎異抄』の解説本を読んで、この悪人正機をピシッと説明していると思えるのはきわめて稀といわなければなりません。
 普通はこんなふうに説明されます。善人というのは自分の力というものに信頼をおいている人(自力作善のひと)だから、他力をたのむこころに欠ける。一方、悪人は自分の力に絶望しているゆえに他力をたのむしかない。だから悪人こそ弥陀の本願にかなうのである、と。この説明は親鸞のことばに沿うものであり、決して間違っているわけではありませんが、しかしどうしても隔靴掻痒の感がぬぐえません。分かったように思えて、しかしピシッと分かったという感じがしない。たとえば、善人は自力作善のひとであるというのはその通りだとしても、悪人は自分の力に絶望しているというのはほんとうにそうかと疑問が生じないでしょうか。
 ぼくらは世の中に善と悪があり、善をなす人が善人で、悪をなす人が悪人であると思います。善人と悪人が客観的にいると思うのが普通ですが、ここで親鸞が言っているのはそういう客観的な善人・悪人ではありません。そうではなく、自分を善人と思う人を善人、自分を悪人と思う人を悪人と言っているのです。親鸞にとって善人も悪人も自覚においてしか存在しないということです。世の中であの人ほど善い人はいないと思われている人でも「自分は悪人だ」と思えば、その人は悪人であり、世のなかにあんな悪いヤツはいないと思われていても「自分は善人だ」と思えば、その人は善人です。

タグ:親鸞を読む
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